2015年12月23日水曜日

《ガラテヤ書連続説教 17》 大事なのは新しい創造 ガラテヤ6:11~18

 ガラテヤ書の連続説教も今日が最終回となります。回数では17回目です。この書は論争の書である、と最初に申し上げました。しかし、論争に明け暮れたのではなく、そこには大事なことが教えられています。その大事な教えの一つは、信仰義認の教理です。私たちが神の御前に赦されて義と認められるのは、ただキリストの信仰による、という真理が明確に教えられています。もう一つ、この教えと連続して聖化の勧めがなされているのです。ガラテヤ書は信仰義認の書と言われることが多いのですが、信仰義認だけでなく、それと切り離すことのできないものとして、信仰義認と連結して聖化の教えがあることを忘れてはなりません。
 神の御前で受け入れていただいたのですから、神に喜ばれる生活、神が聖であられるように私たちも聖とされていく生活へと進んで行きましょう。そのような生活を送れるように、神が恵みによって助けてくださいます。それは見方を変えれば、聖霊に導かれていく生活であります。信仰義認の教理と連結して、聖霊に導かれる聖化の生活の勧告がなされている。このことがガラテヤ書の最大の特色である、ということをしっかり覚えてください。その聖化の勧告の結びでもある箇所を、これから学んでまいります。
当時の手紙は、著者が手ずからペンを取って書くことはなく、口述するのを別にいる筆記者が書き留めていくのです。紙も今のようなものではなく、パピルス紙や羊皮紙でありましたから、それに書くための技術が求められました。パウロは、この手紙をずっと口述して、筆記者がそれを書いてきたのですが、この最後のしめくくりの部分だけは、著者が自分でペンをとって書いています。それで11節に、自らこう記します。「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」と。
ここで「こんなに大きな字で」と言っているのは、どういうことか。実際に大きな字で書いたのか、単なる形容の表現なのか。パウロが筆記者よりも大きめの字で書いたと考えることができます。それは彼の目が悪かったからだと言う説もありますが、それは真偽のほどが定かでありません。私は、《ここに手ずから書くことが、とても重要である》ということを強調する意味で、「御覧なさい、こんなに大きな字で書いていますよ」と言ったのだ、と考えるのがよいと思います。最後のしめくくりの言葉を手ずから書くのは、挨拶の言葉だけの場合が普通ですが、ここでパウロは、ただの挨拶では済まさず、これまで述べてきたことを半ば繰り返すようにして、大事なことを述べているのです。それで「こんなに大きな字で」と、思わず書いてしまったのではないでしょうか。
12~13節には、ガラテヤ書が論争の書である名残(なごり)が見られます。「あなたがたに割礼を強制する人たち[注・パウロの論争相手]は、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」ここでパウロは、明らかに論争相手を批判しているのです。
この論争相手は、異邦人でキリスト者になったガラテヤ教会の信徒たちに、割礼を受けることを強制したユダヤ人キリスト者であり、割礼派と呼ぶことができます。《イエス・キリストの信仰が大事ある。この信仰がなければ救われない》ということは認めます。しかし《それだけでは足りない。割礼も受けてユダヤ人のようにならなければいけない》と言うのです。ガラテヤ教会の信徒の多くは、割礼を受けていない異邦人であったと思われます。その信徒たちが割礼を受けることを強制され、割礼を受ける者まで現れて、教会に混乱が生じていたわけです。
割礼を受けるのは男だけですから、女性はどうなっていたの?という疑問が生じて当然ではないでしょうか。あまりにも男性中心的な発想であると、フェミニスト神学者から手厳しく言われそうです。そのことに私は改めて気づいていますが、それについて述べる用意が今はありません。そのことは置いて、ここで言われていることが、具体的に何を意味するのか。あまりよく解りません。
「肉において外見を良くしたい」とか「キリストの十字架のために迫害を受けたくない」とは、どういうことなのか。またパウロは、割礼派に対して「自分自身が律法を守っていません」と言い切っていますが、言われた方は反論したくなるでしょうね。パウロの体験と判断から、このように言われているのです。律法を誰よりも熱心に守ろうと励んできたのに、守り切れないことを、彼はしみじみ感じました。割礼派の人たちには、かなり律法を守っているという思いが強くあったでしょうから、この論争には噛み合わない点があったかもしれません。
13節後半も何を言っているのか解りにくいのですが、かなり妥当性のある見解だけ申し上げます。当時は、ユダヤ教徒も熱心に伝道していました。それで異邦人でユダヤ教の会堂に集まる人たちが増えていたのです。その中から、さらにキリスト者になる人たちが現れました。その異邦人キリスト者に割礼を受けさせるなら、割礼派の人たちにとって、それは自分たちの活動ぶりを誇示する功績になったに違いありません。そんなことが、ここで言われていることの具体的内容ではないか、と思われます。
 では、《異邦人がキリスト者になるのに、割礼を受けてユダヤ人のようになる必要はない。キリストの信仰だけでよいのだ》と、なぜパウロは言い切れたのでしょうか。このことが、一番大事なポイントです。このポイントをしっかり学び取り、身に着けるようにしてください。それが14~15節に書いてあります。パウロが割礼派を厳しく批判した理由です。彼が「大きな字で書いていています」と言ったのは、このことであります。
 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」
 この聖句における決め手の言葉は「新しい創造」であると受けとめ、説教題も「大事なのは新しい創造」としました。一般には、14節のほうが脚光を浴び、「十字架以外に誇るものは何もない」などという説教題を掲げることが多いでしょう。しかし私は、15節の最後に記されている「大事なのは新しい創造です」が、この箇所のキーワードであると思います。「割礼を受けているかどうかは、大事なことではありません」と言い切れたのは、《新しい創造が始まっている》という認識がパウロにあったからで、割礼派にはこの認識が全くありませんでした。この違いが決定的な意味を持つのです。
 私たちキリストの教会に集まっている者は、「新しい創造」を知っている者たちです。あなたがたは本当に知っているでしょうか。そのことが今、一人一人に問われています。新しい創造を知っているからこそ(新しい創造の世界に今私が生かされている恵みを体験しているからこそ)、「割礼なんか大事なことではない」と言い切れるのです。
 ここで、もつ一つのキーワードを紹介します。それは「終末論的」という用語です。これは難しそうな言葉ですから用いないで済ましたいのですが、すごく大事な概念ですから、解っていただければ益するところが大きいと思います。イエス・キリストが来られた出来事は、それ自体が《終末論的出来事》である、とパウロは受けとめていたのです。まさに新しいレジーム(体制)が展開し、旧約時代が新約時代となって、新しい時代が幕を開けました。二つの時代の間には連続性も認められますが、大きな変化があります。レジームの大転換が起こっているのです。
その意味で、旧約時代は終末を迎えました。キリストの到来と出現は、古い体制を終わらせ、新しい創造を始めさせる契機となった[そのような意味で]終末論的出来事であったのです。そういう終末論的出来事が進行する中で、信仰義認の教えが説かれ、聖化の生活への勧めが行われています。このことが解っていただけたら、あなたがたの信仰生活の視野と理解は、ダイナミックな広がりを見せ、格段に深まることでしょう。
この新約時代における「新しい創造」ということに言及している旧約預言者は、イザヤであります。その預言が見られるのは、イザヤ書の後半部、40章以下のところです。43章19節で、昨年(2007年)の蓮沼キリスト教会の年間標語となった聖句であります。「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。」 その新しい事は、いつ起こったのか。《イエス・キリストの到来とその出来事によって》というのが、新約聖書の答えです。「そのことがまだ解らないのか」と、パウロは割礼派の人々に(私たちにも)問いかけているのではないでしようか。 
それから「新しい創造」という言葉は、イザヤ書65章17節と66章22節に出てまいります。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(65:17)は、黙示録21章を連想させてくれますが、この新天新地という新しい創造はイエス・キリストによって始まったのです。パウロはそのように理解していますが、パウロだけでなく、ヘブル書の著者も(1:1-2参照)Ⅰペテロ書の著者ペテロも(1:20参照)、そのことを認めています。
パウロのこの認識がもっと明確に示されているのが、コリントⅡ5:17です。新改訳の本文は、「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と訳されています。しかし脚注に、あるいは「そこには新しい創造があります」という別訳が示されています。この別訳のほうが良い、と私は思います。ギリシア語原文は、「だれでもキリストのうちにあるなら」の後には、「新しい創造」という言葉があるだけです。日本語にする場合、適当に言葉を補わないとはっきり意味が通じません。「その人は新しく造られた者です」よりも「そこには新しい創造があります」と訳すほうが、パウロの意図に沿うばかりか、後半の文章への続き具合もずっと良いと思います。
「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という現実は、キリスト者個人が「新しく造られた者」となることよりも、レジームの大転換を意味する「新しい創造」と対応するものと見るべきでしょう。その過ぎ去った古いレジームの中に、パウロは割礼を見ていたに違いありません。新改訳が「新しくなりました」と訳したギリシア語動詞は完了形なので、新しくなった現実が今に至っていることを意味します。私は、「新しくされてしまいました」と訳したいと思います。すでにキリストとともに新しいレジームが始まって今に至っているのです。
この新しいレジームにおいて、義と認められる(救われる)ために役立つのは、割礼ではありません。今や神の民となるために不可欠なものは、男性のみに許されていた割礼ではなく、キリストにある「新しい創造」に参与することであって、それは人種・階級・性の差別を乗り越えてすべての人に開かれています。そのために真に役立つ[他には何も要らないと言えるほど]大事なものは何か。私たちはパウロとともに声を大にして言いましょう。《キリストから恵みによって賜る信仰、言い換えれば、すべてをキリストにおゆだねすること―それだけである》と。
神がイエス・キリストにおいて成し遂げてくださったこと、それは十字架と復活の出来事に集約されています。14節では十字架が強調されていますが、復活を無視しているわけではありません。むしろ、復活の光に照らされた十字架が強調されているのです。十字架につけられたままのキリストが、よみがえらされて今も生きておられます。私たちと共におられるインマヌエルの主キリストは、十字架につけられたままの復活のキリストに他なりません。この認識と体験を深く身に着けていたのが、使徒パウロです。
私たちも、このパウロと同じ認識と体験を共有することが許されています。ですから、しっかり共有してまいりましょう。キリストにある「新しい創造」の中に恵みによって入れられて、私も新しくされています。その私は、パウロとともに、キリストの十字架以外に誇るものは何もない、と言うことができます。「この十字架によって、世界(世)は私に対して十字架につけられ、私も世界(世)に対して十字架につけられたのです。」 この言明は、世と私との間に大きな断絶があることを意味します。これはすごく重大な認識でありますが、デリケートな問題を含んでいて、私たちを悩ませる要因ともなるのです。
私たちは地上にあるかぎり、世と無関係に生きることはできません。しかし基本的に、いや根本的に、私たちは[新しい創造に参与するものとして]世に属するものではありません。しかし忘れてならないことは、同時に私たちは、キリストにあって世に遣わされてもいるのです(ヨハネ17:16-18参照)。私は世に属するものではないが、世に遣わされている―これはキリスト者各自が黙想を深めて把握すべき大事な課題であります。
キリストと共に十字架につけられて、私は世に対して死にました。洗礼を受けたキリスト者は世とは訣別して、古い人に死んだのです。その意味で、キリスト者は世に対して葬式を済ませました。そういうキリスト者が、世を支配する復活のキリストから、世に遣わされています。それは世にならうのでなく、世にキリストの恵みの支配を及ぼす(まさに「新しい創造」を証しする)使命を果たすためです。それが隣人愛の戒めの実践に通じることは、言うまでもありません。
そのために、14節の聖句を黙想の中で反芻(はんすう)し、その言葉に酔うのではなく、しっかり醒(さ)めて深く味わい、キリストにある「新しい創造」の中に自分自身があるのだ、という霊的現実を身に着けてください。「この[新しい創造に参与しているという価値観の]基準(尺度)に従って進む人々」に、私たちもさせていただきましょう。そういう私たちこそ「神のイスラエル」であり、そのような「神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」と、パウロは祈っていてくれるのです(16節)

17節でパウロは、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのです」と言いますが、それは「この私は、自分がイエス様の所有であることを決して忘れません」という覚悟の表明です。私たちも同じ覚悟を言い表す者でありたいと願いつつ、ガラテヤ書の連続説教を終わります。   (2008.1.13 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 16》 互いに重荷を負い合いなさい

  今日の礼拝は、2007年の待降節(アドベント)第二礼拝であります。先ほど歌った二つの讃美歌とも待降節に関係のある讃美でした。最初に歌った242番は、私の好きな讃美歌で、毎年待降節に歌わせていただいていますが、その2節は「……第二の蝋燭(ろうそく)ともそう。主がなされたそのように、互いに助けよう」です。ですから、今回の説教「互いに重荷を負い合いなさい」は、アドベント第二礼拝にふさわしい説教題である、との確信を与えられております。
ガラテヤ書の連続説教を月1回のペースでさせていただいていますが、終りに近づきました。このガラテヤ書には、前回も述べたように、二つの大きな柱があります。一つは信仰義認の教えです。この教えは余りにも有名ですから、皆さんが知っています。もう一つの柱は、忘れられている場合が多いのですが、信仰義認の教えに優るとも劣らず強調されている聖化の生活です。信仰義認の教えと聖化の生活の勧めとは、一対のものであり、切っても切れない関係にあります。信仰によって義と認められるということは、聖化の生活の始まりとなるのです。このことは、私たちの信仰生活の骨格を形成する大切な教理となるものですから、しっかり学んで身に着けてまいりましょう。
ガラテヤ書も終りに近づき、パウロは聖化の生活との関連で、いくつかの具体的な事項に触れながら、そのことにガラテヤ教会の信徒たちの注意を向けさせています。それは私たちにも向けられている注意事項です。「これから述べることには、よく注意してくださいよ」というパウロの思いを、皆さんもしっかり受けとめていただきたいと願います。
今回の箇所、6章1節から10節までは、ごく自然に5節ずつ前後に分けられていると思います。1節が5節までが前半、6節から10節までが後半です。前半のほうでは、互いに重荷を負い合うことが、特に勧められています。後半のほうでは、すべての人に対して善を行うこと、このことも大事ですよ、と言われているように思います。この両者は深く関わり合っています。互いに重荷を負い合うことは、すべての人に対して善を行うことに通じるからです。
そして、さらに皆さんに注目していただきたいのは、この箇所全体に通じる、ここで具体的に勧められていることの根底にある、まさに核心的警句が3節に書いてある、ということです。これがすごく大事である、と思います。この箇所の勧めを理解する鍵と言ってもよいでしょう。新改訳聖書は、「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」と訳しています。これはかなり意訳してあるので、ギリシア語原文の前半を直訳すると、「だれでも、自分を何者であるかのように思うなら」となる文章です。
「だれでも、自分を何者であるかのように思うなら、自分を欺いているのだ」という厳しい戒め、あるいは警告の言葉であります。この警告はすごく大事である、と私は受けとめています。皆さんも、そう受けとめてほしいと願います。このように自分を欺いていたら、信仰義認の恵みにはあずかれません。まして、そのように自分を欺くことは、聖化の生活の最大の妨げとなるのです。
実際の生活では、生活の知恵として、ある程度の自己評価、あるいは自尊心というものが必要であると思います。自己評価をしっかり持ち、アイデンティティを確立していないと、社会生活をすることが難しくなります。自尊心がないと、言い換えると、自信が持てないと、人と人との関係を築くことが困難になるのです。しかし、自尊心も自己評価も、度を過ぎると問題が生じます。それが度を過ごすと、人間関係や霊的生活を破壊することにもなるのです。
実際問題として、自己評価が度を過ぎてしまうことが多いのではありませんか。それこそが誘惑です。それで1節後半に「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と言われています。気をつけなければならない誘惑とは、度を過ぎて自己評価を高くすることです。この誘惑を私は今、わが身に感じています。霊的生活において私はかなり成長させていただいた、という思い[いや、自負心]が正直に言って強くあります。アシュラムで奉仕する機会も多くなっています。それは私自身の霊的状態が良いことの証しである、という思いが強くなります。すると、知らぬ間に慢心が起こってくるのです。
これは、ものすごく警戒しなければなりません。そのことを強く感じます。ですから、自分を何者であるかのように思う思いを、本当に注意しなければなりません。そのため日ごと朝ごと、私は主イエス様に仕えられている、イエス様が私の足を洗ってくださっている、ということを覚えさせられていくことの重大さを、痛感させられます。教会の中に問題が起こる時には、必ずここに原因があるのです。自分を何者であるかのごとく思う人が教会の中に幾人かいると、必ず問題が起こります。ですから、ひとり残らず、みんなが、この誘惑に陥らないように、この誘惑から私を救い出してくださるように、主の祈りを真剣に祈ってまいりましょう。
心すべきは、人間の驕(おご)り・高ぶりであります。7節に「神は侮られるような方ではありません」とあります。自分が驕り高ぶることは、神を侮ることに他なりません。これは、ただの罪ではなく、カトリック教会で言う《大罪(たいざい)》であります。自分を何者であるかのごとく思い高ぶるのは、神様に対する大きな罪なのです。人間が高ぶりの種を蒔くならば、必ず滅びの刈り取りをすることになります。その意味で、「人が種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」と言われているのです(7節後半)
 自分自身は取るに足りない者である、ということを知る。このことが神と人とに仕えることの一番の基本である。このことを教えてくれた人は、ディートリヒ・ボンヘッファーです。39歳という若さでナチス・ドイツの手で殉教の死に追いやられましたが、たくさんの著作を残しています。その中に、彼が生前に出版した『共に生きる生活』があります。ヒットラー政権に抵抗するドイツ告白教会の牧師候補者たちを訓練する牧師研修所の所長であった30代前半の頃、彼は牧師候補者たちと「兄弟の家」で共同生活をしました。その共に生きる生活の実践の中から生まれたのが、今紹介した書物です。
 その書の中に「仕えること」という項目の章があります。これは最近、同じ訳者が全面的に改訳して出された新版による項目名で、前訳の旧版では「奉仕」となっていました。「奉仕」よりも「仕えること」のほうがよいと思います。仕えることの根本は、自分が取るに足りない者であることを、しっかり覚えることなのです。この心構え無しに仕えることはできません。本当にそうですね。
 ボンヘッファーは、他にも幾つかのことを挙げていますが、もう一つだけ、第二に大切だと思う心構えを紹介します。それは、人の言うことに耳を傾けることです。そして、このことについて彼は重要なことを述べています。《神のことばに耳を傾けることをしない人は、人の言うことに耳を傾けることができない》と。人の言うことに耳を傾ける者は、自ら神のことばをしっかり聴いている人に他なりません。そう語るボンヘッファーは、共に生きる生活の中で、アシュラムと同じことを行っていたのです。
 自分は取るに足りない者であると自覚させられている、そういう者に神はとりわけねんごろに語りかけ、恵みと愛の福音を聴受させてくださいます。その結果、感謝と喜びが湧き上がってくるのです。
昨日、私の主宰で月一回行っている、有志による新約聖書をギリシア語原典で読む会がありました。そこに遠く千葉県から参加している方が、途中まで来たのに体調が悪くなって引き返し、欠席を余儀なくされました。その方のことについて、友人である受講者の一人が話してくれたことです。その方が出席している教会の集会では、説教中に牧師が、聴衆である信徒たちに、「あなたたちは足りない」と非難する言葉を投げかけることがあるらしい。それでその方は悩んでいるが、私が主宰する会に参加することで慰めを得ておられる、ということなのです。
その方の悩みは大変だと思いました。足りない者を顧みて、足りるようにしてくれるのが福音ではありませんか。人はみな足りない者です。牧師だって足りない者です。その牧師が信徒たちを、事情はよく分かりませんが、どうして「足りない」と言って非難できるのでしょうか。改めて聖書の教えを、しっかり心に刻みましょう。自分を取るに足りないと知ることが、義認の恵みを受ける鍵であり、仕えることの基本となるのです。
5節に「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があります」と書いてあります。その「負うべき自分自身の重荷」とは何か。その答えは、これまで教えられてきたことに示されています。その重荷の筆頭に挙げられるのは、絶えざる自己吟味に他なりません。自分を取るに足りない者であるとみなす修練を、日々新たに重ねていくことです。そのようにして、絶えざる自己吟味という重荷を負い続ける中で、朝ごとに福音してくださる神のことばを静聴してまいります。すると、取るに足りない者を顧みてくださるイエス様の測り知れない愛を、神様の圧倒的な愛を、深く覚えさせられるようになるのです。
「重荷」というと、重い荷物を背負わされるように感じて、嫌(いや)な思いになるかもしれません。しかし、この重荷は、実は軽いのです。「わたしのくびきは負いやすく、わたしがあなたに負わせる荷は軽いのだ」と、イエス様が言われています(マタイ11:30)。この取るに足りない者をイエス様がどれほどいつくしみ、どれほど愛してくださっているか、ということを覚えるのは、本当にうれしいことではありませんか。この喜びを味わえるからこそ、負うべき重荷を軽やかに負っていくことができるのです。
「互いに重荷を負い合い」に続いて、「そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と、パウロは勧めています。互いに重荷を負うこと、それは言い換えれば、自分のように隣人を愛することです。この隣人愛の実践こそ、律法全体の要約であることを学びました(5:14)。これが「キリストの律法」である、とパウロは捉えているのです。キリストの律法とは、隣人愛の勧めに他なりません。隣人を自分自身のように愛することは、隣人に仕えていくことであります。
そのとき、忘れてはならないことがあります。キリストがまず、この私に仕えてくださっている、という現実です。この現実を片時(かたとき)も忘れないようにしましょう。イエス様は、私に仕えるために、いつも私と共におられます。共にいて、私を祝福してくださっています。私に仕えるようにして、私を祝福してくださっているのです。私を祝福してくださるイエス様は、いつも私のために祈っていてくださいます。そのイエス様のお姿を黙想し、観想することにより、その祝福をいっぱい受けることができるのです。
イエス様は、私たちにこう言われます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。それに続いて「わたしのくびきを負って、私から学びなさい」と言われます。何を学ぶのか。「わたしが心優しく、へりくだっていることを」と、イエス様はおっしゃっています(マタイ11:28-29)。私たちがイエス様から学ぶのは、《イエス様は心優しく、へりくだっておられる》ことです。そういうイエス様のお姿を学ばなければならない。学んでイエス様のお姿に近づくとき、おのずから、イエス様が私にしてくださったように、私も隣人にしてあげたい、してあげずにはおられない、という思いに満たされてくるのです。
イエス様の優しさとへりくだり。「わたしは心において優しく、へりくだっている」というのがギリシア語原文の直訳ですが、それを新改訳は「心優しく、へりくだっている」と訳しています。とても良い訳だと思います。隣人愛の実践には、「心優しく、へりくだっている」ことが不可欠の要件なのです。私自身が心優しく、へりくだっていなければ、隣人に仕えることはできません。隣人を愛することもできません。ですから、私自身が心優しい者であるように、へりくだっている者であるように、イエス様の心優しさ、イエス様のへりくだりを学び、しっかり身につけていくことに励みましょう。
そのイエス様を、今、私はいただいているのです。そのイエス様が、私と共にいてくださるのです。そのことをしっかり覚えてまいりましょう。そして、そのイエス様のお姿が心に焼き付いて、いつでも思い浮かべられるように、イエス様のお姿を全身で感じるまで観想してください。
そのようにして、自分自身がイエス様のように心優しく、へりくだっている状態にさせられていることを、本当に喜び感謝している。そのことが健全なスピリチュアリティ(霊性)である、と私は思います。そのような霊性は、「すべての人に対して」善を行わせてくれるのです。
10節には、「ですから、私たちは機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」とあります。「特に信仰の家族の人たちに」と言われているので、教会外の人たちよりも、教会内の人たちに善を行うことが優先される、というような解釈が行われます。でも、これはガラテヤの諸教会に問題があったので、パウロがわざわざ「特に信仰の家族の人たちに」、言い換えると「特に[ガラテヤ教会の信徒である]あなたがたの間で」と言っただけのことではないでしょうか。
したがって、これは、善を行うには教会の内部を優先させよ、という指示ではありません。教会の外部の人たちに対しても、分け隔てなく、それこそ「すべての人に対して」善を行いなさい、と勧められているのです。では、その「善」とは何か。答えは、すでに教えられています。善にはいろいろあるでしょうが、その第一に挙げられなければならないのは、《しもべとして仕える》ことです。「すべての人に対して」しもべとして仕えること―これが「善を行いましょう」と勧められている、その「善」の具体的な内容である、と言って間違いないでしょう。
イエス様は言われます。「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためである」と。その前に弟子たちを諭しておられます。「人々の先に立ちたいと思うなら、みんなに仕えるしもべになりなさい」と(マルコ10:43-45参照)。《みんなに仕えるしもべになる》―このことを待降節第二主日に当たり、深く心に留めさせていただき、そのように生きる者とさせていただきましょう。

(2007.12.9 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 15》 聖霊の実を結ぶ生活 ガラテヤ5:16~26

  パウロは神学者と言われるくらい思索の深い人でした。それで理論の人であった言うこともできるのですが、それだけではなく、いやそれ以上に、パウロは実践の人でありました。別の言い方をすれば、パウロは、信仰と生活とを分離させることがなかった、と言うことができるでしょう。これは当たり前のことですが、大事なことであります。下手をすると、信仰と生活とが分離して、信仰だけ、生活だけ、ということになってしまいます。生活と信仰がしっかり一つに結び合わされて、名実ともに《信仰生活》となっているということが、とても大切なことです。
教理的な面から見ると、パウロはガラテヤ書で、信仰義認ということを強調しました。この教理は、ガラテヤ書の強調点の大きな柱です。しかし、ガラテヤ書の特色は、それだけではありません。ガラテヤ書が強調している信仰義認の教理は、私たちが神のみこころに従って聖(きよ)い生活に導かれていくという、聖化の生活と結びついています。ガラテヤ書には、信仰義認の教えと切り離されることなく、むしろ連結するようにして、聖化の教えが大切な柱としてあるのです。
この聖化の生活は、どういう内実のものであるのか。それは前回学んだように、隣人愛の戒めの実行です。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語によって全うされるのです」(14節)。この隣人愛を実践していくことが、聖化の生活の内容であります。義認の教理は、この隣人愛の生活を実行することの始まりとなるのです。そのことをしっかり心に刻んでいただきたい、と願っています。
6節に「割礼を受けるか受けないかは、役立つことではない。役立つのは、愛によって働く信仰である」と言われています。その「愛によって働く信仰」とは、《隣人愛の実践を伴う信仰》のことである、と言ってよいでしょう。ですから、隣人愛の伴わない信仰は役に立ちません。信仰という名はあっても、実(じつ)がないのです。そんな信仰は有名無実である、ということになります。
そして大事なこと学びます。聖化の歩みは、決して律法の行いによるのではありません。信仰義認が律法の行いと全く無縁であるように、義認に連結する聖化の歩みも、律法の行いとは全く無縁であるのです。では、何が聖化の歩みの原動力となるのか。その答えは、すでに4章6節で学んだことから明らかです。「神は、『アバ、父』と呼ぶ御子の御霊(聖霊)を、私たちの心に遣わしてくださいました。」 私たちの心に遣わされた御子の聖霊こそ、聖化の歩みの原動力となるのです。これはとても大事なこと、まさに肝腎要(かんじんかなめ)のことであります。
前に、ガラテヤ書は起伏に富んだ内容の書で、読んでいて飽きることがない、と言いました。しかし、それはかなり読みこなしている人に言えることかもしれない、と思わされております。ガラテヤ書の中には、読みこなしていない人には、読みにくい点があるからです。それは律法をめぐって食い違いがあるのではないか、と思われる教えが展開されている、と感じられることであります。
パウロは、信仰によって義と認められるために律法の行いは無用である、とはっきり主張しています。私たちはもはや律法の下にはいない、とまで言い切っています。そう言いながら、聖化の生活を勧める中で、パウロが律法のことを持ち出しているのは、どうしてなのか。これは考えてみると、矛盾であります。この矛盾にひっかかり、戸惑うことが当然あるのです。私も、かつて神学的にひっかかりを覚え、悩み抜いたことがあります。ようやく悩みを通り抜けて、きちんと理解させていただけるようになりました。
その理解の鍵は、律法の持つ本質的なものと、その実際的な働きとを分けて考えることにあります。本質的なものとは、律法が神の御旨(みむね)を示していることです。しかし、律法が実際に機能しているとき、律法を行うことによって神の恵みを受けるのだとしたら、人は律法を完全に守れるだろうか。誰も守れません。律法を行うことによっては、誰ひとり、神の御前に義と認められないのです。その点で、私たちは律法の下におりません。私たちが義と認められるのは、キリストを賜った神の恵みのみ、その恵み―十字架と復活の福音―を感謝して受ける信仰のみによるのです。
そういう視野からすると、律法は要らなくなります。そこで「律法よ、おさらば!」と言って済(す)ませたら、事はすっきりするでしょう。では、信仰によって義とされた人の生活は、律法と全く関係なくやっていけるのかと言うと、そうではありません。むしろ、神の御旨として示された本来の律法を新しい観点から全うしていく、ということが始まります。この本来の律法とは、隣人愛の戒めに要約されているもであり、その実践が聖化の生活の重要な課題となるのです。
ユダヤ教は、たくさんの戒めを挙げて、それらを守らなければいけない、と教えてきました。しかし、戒めはたくさんあるのではなく、それは一つにまとめられるのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。これこそが、神の御旨なのです。この神の御旨を果たして行く聖化の生活は、律法の行いによって義とされることとは全く関係がありません。律法の行いとは全く関係なしに、神の御旨である隣人愛の戒めを実践していくこと―それが聖化の歩みなのです。この点をしっかり把握すると、ガラテヤ書が本当によく解(わか)るようになります。
 パウロは、聖化の生活の勧めに入ります。ここで学ぶのは、その勧めの内容です。冒頭の「私は言います」とありますが、これは簡単には読み過ごせない、厳粛な意味がこもっています。パウロは使徒としての使命感から、使徒的権威を背景に、ガラテヤの信徒たちに勧めています。私たちにも、パウロは使徒的権威をもって「私が言うことを、しっかり聴いてください」と前置きし、勧めているのです。「聖霊によって歩みなさい」と。
 新改訳は「御霊(みたま)」と訳しており、これまで日本のキリスト教界でも「御霊」と言われてきました。しかし、「靖国の御霊(みたま)」と言い習わされているように、「御霊」
は神道用語として多くの日本人に周知されていますので、キリスト教界で使用するのは適当でないと思います。「賛美歌21」も、御霊を止めて聖霊に置き換えています。私も御霊と言わず、聖霊と呼ぶことに賛成です。「聖霊に導かれて歩みなさい」―この勧めが聖化の生活のポイントであり、聖化にとって一番肝腎(かんじん)のことであります。
 聖霊に導かれて歩んでいく―「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(17節)。ここに「肉の欲望」という言葉が出てまいります。パウロは、理想を追い求め、理想に憧れていた人です。そういう一面が彼にはあります。しかし、そのために現実を見ることを軽んじる、といことがありませんでした。パウロは、現実を直視することを忘れない人であったのです。それがパウロの偉さである、と思います。
 理想と現実は、時に相(あい)反することがあります。でも、その相反するものを併(あわ)
せ持っていることは、とても大事なことであります。現実一点張りの人、あるいは理想を追ってばかりいる人―そのどちらも問題があるのではないでしょうか。パウロは理想に憧れつつも現実を見失わない人でありましたから、信仰によって義とされたキリスト者であっても、肉の欲望という現実から完全に解放されてしまっているわけではない、ということを知っていたのです。
理想としては[教理的・理論的には]、キリスト者は、古い人(肉の人)に死んで新しい人(霊の人)に生きているので、肉の欲望とは縁が切れています。そう主張して突っ走ったのが、一世紀終わり頃から二世紀にかけて大きな勢力となったグノーシス思想です。これは二世紀末には異端としてキリスト教界から完全に退けられましたが、その特徴は理想一点張りの点にありました。実際、グノーシス異端には現実を直視しないための問題が生じて、自ら墓穴を掘るに至ったのです。
パウロは、そういう点でも、理想と現実とのバランスを欠くことなく、真理を受けとめていた人でした。現実の問題として、キリスト者も肉の欲望と無縁ではありません。実際に、私も「肉の欲望とは無縁です」と言い切れるものなら言いたいのですが、そうは言えません。絶えず肉の欲望という誘惑にさらされているのが、現実の私の姿です。
そのようにキリスト者も、「肉」と「霊」の対立の中に置かれています。この対立関係にある「肉」と「霊」は、特別の意味で使われています。それを肉体と霊魂と考えれば一番分かりやすいのですが、この場合は違います。ここでパウロが「肉」と言うのは、聖霊に逆らう原理、もっと分かりやすく言えば《神に逆らい、神から引き離そうとする力》のことです。それは人間の生来の性質であり、それゆえに、すべての人は《原罪》を負っているという教理が成り立ちます。
それに対して「霊」は、その「肉」に逆らう原理を指しています。言い換えれば、《神に喜んで従おうとする力》のことです。それは生来の人間の性質ではなく、神から新たにいただく賜物であります。キリスト者は、その賜物をいただいているのです。それゆえ、現実のキリスト者は、肉と霊との対立、いや肉と霊との闘争の中に置かれています。このことがキリスト者生活に一種の彩(いろど)りを添えているのであって、それから逃れられるキリスト者はおりません。
それにもかかわらず、いや、それだからこそ、私たちキリスト者は、この肉と霊との闘争に勝利するため、聖霊に導かれて歩み続けるのです。聖霊はいつも、「肉」の原理を打ち破る力を与えてくださいます。だから、聖霊によって歩むとき、肉の欲望を満足させるようなことは決してありません。肉の欲望に支配されそうになることはあっても、支配されてしまうことはありません。それに必ず勝利させてくれるのです。
それでパウロは、改めて18節でこう言います。「聖霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」と。聖霊の導きに完全にゆだねるとき、律法の下には完全にいなくなるのです。「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にある」と、パウロはローマ6章14節で宣言します。これは 大事な教えです。でも、この教えが《百パーセント私の霊的現実となる》ということは、次の課題であります。それが私の揺るがない霊的現実となるためには、私が百パーセント聖霊に導かれて歩まなければなりません。
19節から21節まで、肉の欲望がどういう行いとなって現れるか、「肉の行いは明白です」と言って、それらをパウロは列挙しています。いわゆる悪徳表ですが、いくつかに分類できるでしょう。「不品行、汚れ、好色」は性(セックス)に関するもの、「偶像礼拝、魔術」は宗教的行為に関するもの、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」は交わりを破壊するもの、あるいは隣人愛の実践を阻むものです。最後に挙げられた「酩酊、遊興」は度を過ぎた酒宴のことであると思います。酒宴が禁じられているわけではありませんが、度を過ぎた酒宴はいけません。そこでは乱れが起こり、不品行がまかり通るからです。聖化の生活は、こうした肉の行いに打ち勝っていく歩みに他なりません。そのためには聖霊に導かれることが肝要であり、不可欠なことであるのです。
聖霊に導かれて歩むとき、聖霊の実が結ばれます。その聖霊の実のことが、22-23節に記されています。「しかし、聖霊の実は、……で始まって、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」と九つ徳目が列挙されています。ところで、「聖霊の実」の「実」は、原典を見ると、複数ではなく単数なのです。19節の「肉の行い」の「行い」は複数が使われています。「実」が単数であることは、聖霊の実は一つであることを意味します。ここでは「愛」が、それに当たります。聖霊の実は「愛」なのです。
その後に続く八つの実は、「愛」の実の種々の具体的な現れ方と考えることができます。そのことを示すため、こう訳すと良いでしょう。「聖霊の実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と。聖霊が結ばせてくださる実は、愛に他なりません。神の戒めは、ただ一つ、隣人愛の実践です。その隣人愛の実を結ばせてくださるのが、聖霊であります。続く八つの実は、その愛のいろいろな現れ方である、と理解するのがよろしいでしょう。
愛は喜びという現れ方、平安(平和)という現れ方もします。愛・喜び・平安は、私たちの内面的なものだ、という説明もあります。寛容・親切・善意は、愛が対人関係において現されるものと言われます。先の愛・喜び・平安も、対人関係にかかわるものですから、あまり厳密に分類するのはどうかと思います。寛容は赦すこと、赦してあげることです。親切は相手の立場を思いやることであり、自分がしたいと思うことを相手に対してするのではなく、相手がしてほしいと願っていることをしてあげる、それが本当の親切です。善意は悪意を抱かず気持ちよく相手に接する態度であり、まさに隣人愛を実践して、交わりを促進させるものであります。
最後の三つ「誠実、柔和、自制」は、人柄に関するものであり、誠実は真面目さ、柔和は優しさ、自制はしなやかさ示すという解釈があります。真面目で、優しくて、しなやかであることは、隣人愛の実践に欠かすことのできない資質であると思います。そのような実を豊かに結ばせてくださるのが、聖霊です。この聖霊によって私たちは生かされ、また生きています。だから、「聖霊に導かれて、進もうではありませんか」と、パウロは重ねて勧告してくれているのです(25節)
聖霊に導かれることは、父なる神とキリストとの交わりを深めることに通じます。聖霊によって神とキリストとの親密な交わりに導かれる黙想と観想の祈りを深めたいものです。そうするとき、聖霊によって神とキリストとの愛が私の心に豊かに注がれ、私はその愛に包まれるようになります。そうすることによって、聖霊による愛の実が豊かに結ばれ、私を通して神[またキリスト]の愛の働きが進められて行くようになります。

そうするとき、「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(24節)という霊的現実が《自然に私のものとなった》、ということを感じるようになります。これは自分が努力してなれる境地ではありません。この境地に自然に達するのは、聖霊によって父なる神と御子キリストとの交わりが深まり、親密になる時であります。聖霊によって注がれる神の愛、キリストの愛をいっぱい受けるとき、《私の肉の欲望(古い人)は十字架につけられてしまった》という霊的現実を、素直に確認させられるようになるからです。  (2007.11.11 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 14》 愛によって働く信仰への自由

  前回は「キリストにある自由と愛」と題して5章1-6節から話しました。キリストにあって自由にされた者は、その信仰が愛によって働くようにされるのです。この《愛によって働く信仰への自由》というテーマは、6節から13節へと展開します。7-12節は、この主要なテーマの文脈の間に挿入された特別な箇所ということになります。
 ここでパウロは再び―「再び」と言うのは、一度前の箇所(4:8-20)で、自分の感情をかなり表に出してガラテヤの信徒たちに迫る形で訴えたからですが―感情をあらわにして、情熱的にガラテヤの人々に訴えています。私たちにも、あなたがたにも訴えているのだ、と受けとめてください。
「あなたがたはよく走っていたのに……」と言われる「よく走っていた」とは、正しい信仰の道を走っていたということです。パウロに導かれて福音の真理に従い、ガラテヤの諸教会の信徒たちはよく歩んでいました。それなのに異変が起こったのです。「だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか」(7)。その「だれか」に対して、ここでパウロは厳しい批判を向けているように思われます。彼らは、パウロから見れば―いや、だれでも公平に見れば―明らかに偽教師です。この偽教師たちにガラテヤの人々は惑わされてしまいました。
そのような偽教師は、「わずかのパン種」(8)と言われるように、ごく少数の者たちであったと推測されます。その人々の「勧めは、あなたがたを召してくださった方[神またはキリスト]から出たものではありません」(8節)。キリストにおいてご自身を現してくださった神が、ガラテヤの人々を福音の真理へと召してくださったのです。その福音の真理に従わなくさせる偽教師の勧めは、神から出たものでは断じてありません。
そのような偽教師は少数であっても、「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させる」(8節)ように、ガラテヤの諸教会全体をかき乱すようになったのです。この場合、「パン種」は悪い意味で使われています[善い意味で使われる場合もある]。このようにガラテヤの諸教会は、悪いパン種によってかき乱されましたが、それでもパウロは、迷わされたガラテヤの信徒たちをあくまで信じていたように思います。「私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています」(10節)と、彼らが必ず迷いから覚めて立ち直ってくれるという確信をもって、この手紙を書いているのです。
「しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです」(10節後半)と、偽教師たちには、厳しい言葉を投げかけています。福音の真理を乱す者に、パウロは激しい憤りを感じたのです。その極め付けと思われる痛烈な皮肉を、彼は12節に書いています。偽教師たちは福音を信じるだけでは足りず、割礼も受ける必要があると主張したのです。割礼は何をするのか、私たちにはよくわかりませんね。聖書辞典の説明によると、男根の先の包皮を切除する一種の外科手術です。それをすることが大事であるなら、「いっそのこと男根を切り取ってしまうほうがよい」とまで、パウロは言っているのです(新改訳は「男根を」を省いていますから、痛烈な皮肉がもろには伝わりません)
11節に戻ります。「もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう」とパウロが語る背景には、彼の福音宣教が相当な抵抗を受ける中で進められて行ったという事実があるのです。キリスト教はユダヤ教を母体として生まれました。パウロがローマ世界の各地で福音を伝えたとき、必ずユダヤ人の会堂に、会堂がなければユダヤ人たちが集まる祈り場に行きました。使徒の働きを読むと、そのことがよくわかります。その会堂には、ユダヤ人だけではなく、ユダヤ教に惹(ひ)かれる異邦人も集まっていました。パウロが語る福音を聴いて信じた人々は、その中にユダヤ人もいましたが、そういう異邦人のほうが多かったと思われるのです。
ユダヤ人のようにならなくても、異邦人のまま救われるという福音ですから、異邦人でキリスト者になった人が多かったのは、自然の成り行きであったかもしれません。それに対するユダヤ人のパウロ批判は、かなり強いものがあったでしょう。パウロの福音宣教は、いつも強い迫害を受ける中で進められていました。もしパウロが、割礼を受けることも大事だと言ったなら、そんな迫害は受けずにすんだ、ということになるのです。
さらに11節後半に、「十字架のつまずきも取り除かれているはずです」と言われています。十字架につけられるのは極悪人か政治犯です。イエス様が十字架につけられた表向きの理由は、ローマ帝国に逆らう政治犯ということでしょう。十字架につけられるような人が、なぜ救い主(キリスト)なのか。これは大きな疑問であり、「つまずき」でありました。その十字架の前に立つとき、私たちはいろいろなことを思います。イエス様が十字架につけられたのは、私たちの罪の身代わりであった。このように思うのは、イエス様の復活の光に照らされたからです。復活の光に照らされなければ、わからないことですから。
それがわかって、《イエス様が十字架につけられたのは私の罪の身代わりである》ということを深く黙想するとき、自分自身の罪深さをもっと深く示されるようになります。キリスト者は罪を知り、罪を悔い改めて、罪を赦されている者です。そのキリスト者が十字架を仰ぎ見るとき、改めて自分の罪深さを覚えさせられ、《この私の罪がイエス様を十字架につけてしまったのだ》と、しみじみ思わされるようになります。それとともに自分の無力さをも思い知らされるのです。
自分の無力さを思い知らされるとき、律法の行いの無力さを新たに示されます。ユダヤ教は律法を行うことで救われると教えており、旧約聖書もある意味でそう教えている面があります。しかし、それが旧約聖書のすべてではありません。旧約聖書には、新約の福音に通じるすばらしい側面がたくさんあります。それにしても、旧約聖書で律法を行うことで祝福されると教えていることが、いかにむなしいか。人間は自分の力で律法を守り切ることなどできない。そのことを、十字架につけられたイエス様の前で、本当に思い知らされていくのです。
でも、その十字架が復活の光に照らされるとき、《十字架につけられたイエス様が、私たちを罪から救い出してくれる神の力であり、神の知恵であるのだ》ということが、これまた本当にわかるのです。どうして私の罪が無条件に赦されるのか。自分の罪深さを思えば思うほど、自分の無力さを知れば知るほど、この私が赦されて生きる力を与えられているのは、イエス様の十字架の死のおかげなのだ、ということがよくわかります。その証拠に、イエス様は死を打ち破ってよみがえられました。復活のイエス様は永遠のいのちをお持ちなのです。
死んでなくなるいのちは、はかないいのちでしょう。死んでもなくならないいのち、十字架の死を打ち破ったいのち、それこそ永遠のいのちです。その永遠のいのちを、十字架で死んでよみがえられたイエス様が私たちに与えてくださいます。そのとき私たちは、罪からも死からも解放されて、本当に自由にされます。そのことによって私たちは、イエス様を死からよみがえらせてくださった神の大きな愛をいっぱい感じるのです。
 ここで、本題であるキリストにある自由と愛の問題に立ち返ります。6節は、内容的には13節に続いているのです。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」 この13節の書き出しは、1節の「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」という言葉と響き合いますね。そして、13節後半に「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と言われているように、自由と愛が両者並んで出てまいります。このキリストにある自由と愛について、非常に洞察に富んだ本を書いているのが、宗教改革運動を推進した一番の立役者であったマルティン・ルターです。
その本の名は『キリスト者の自由』として知られています。不朽の名著と言われるにふさわしいものです。その第一の項で、ルターはキリスト者の自由について、有名な二つの命題を掲げています。この書については、たくさんの日本語訳があります。私は今ここに「『キリスト者の自由』全訳と吟味」という副題のついた徳善義和先生の『自由と愛に生きる』と題する本を持っていますが、その徳善先生の訳で二つの命題を紹介します。
その第一は、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。」 これはキリスト者の自由の大事な一面です。しかし、自由というのは、両刃の剣のようなものであり、乱用されますと非常に困ることが起こります。自由が道を誤ると放縦になるように、自由には乱用の危険性があるのです。アメリカ式の自由主義経済にも同じ危険性があり、その路線を推し進めた小泉・竹中政権によって、今の日本は格差社会という大きな問題に直面しています。アメリカ式自由主義経済は、資本家と資本を持つ者たちが儲(もう)けるための自由ですから、それが高じると資本を持つ者と持たない者との貧富の格差が広がる構造になっているのです。以前の日本の自由主義経済は、儲けたものは儲けた者が独占しないで、その富をみんなに分配していくようにする仕組みになっていました。それで日本はかつて、世界で貧富の格差の最も少ない、平等で公平な社会を実現しておりました。
それが今はすっかり崩れてしまいました。いくら真面目(まじめ)に働いても貧しさから抜けられない人々を指すワーキングプアーという言葉が生まれていますが、そんな言葉は20年くらい前の日本には全くありませんでした。今の日本は経済的に立ち直りつつあると言われていますが、豊かになっているのは大企業・大資本家・有力な株主たちだけで、庶民の多くは豊かさを実感するどころか、どんどん貧困化していくことを肌で感じているのです。このように新たな奴隷状態が造られています。それがアメリカにおいてはもっと深刻で、アメリカは「貧困大国」と言われているくらいです。大国化をめざす中国も同じ道を歩んでいるように思われます。
 ですから、自由の乱用を防ぐことは、ものすごく大切なことなのです。そのための道といったら、「愛」しかありません。自由の乱用を防ぐためには、愛の道しかないのです。そのことを聖書は、本当に明解に示してくれています。与えられた自由を「肉の働く機会としない」こと。そう聖書は教えています。自分の資本を増大し、そのための働きの場を世界に広げていきたい。それがグローバリゼーションです。格好よさそうな言葉ですが、その内実は、愛の欠片(かけら)もない「弱者切り捨て」という肉の働きなのです。
 聖書は、ここでパウロの口を通し、「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と命じています。このことに関しテマルティン・ルターは、キリスト者の自由の命題の第二として、次のように言います。「キリスト者はすべてのものに仕える僕(しもべ)であって、だれにでも服する。」
これら第一と第二の命題が矛盾なく成り立つところに、キリスト者の自由は存在する、とルターは教えてくれたのです。これは本当に正しい教えだと思います。
 自由主義経済が良い形になるためには、あるいは望ましい自由主義経済とは、経済がすべての人に服して仕える僕にならなければなりません。そのように主張する経済人がおられます。私は、つい最近、その方の感動的な講演を聴きました。品川正治さんという方です。経済同友会の終身幹事をしておられます。利潤はみんなと分け合わなければならない。以前の日本は、そのようにしてきたのです。そのやり方を今も続けていかなければならない、と品川さんは強調されました。それに欠かせないのが《愛の道》です。
自由が健全であるためには愛と肩を並べなければなりません。自由と愛とは、切り離すことができません。自由だけが野放しになったら、それはとても危険なものになってしまいます。自由が健全に働くためには、愛と堅く結びついていかなければなりません。愛は、いつも僕として、すべての人に服して仕える道を選ばしてくれるのです。イエス様ご自身がその道を歩まれました。イエス様は、だれにも服しない自由をお持ちの方です。それでも、イエス様はすべての人に服して仕える僕となる道を歩まれました。
十字架は、そのことを端的に示してくれています。十字架につけられたイエス様。すべての人の僕となって、ご自身をすべての人に与えてくださっているイエス様。私は、そのイエス様のお姿を、十字架で見ることができます。このような私にも、僕として仕えてくださっているイエス様です。このイエス様を知ることは、イエス様を知ることにおいても一番大事な側面ではないでしょうか。20世紀の最大の神学者はカール・バルトでしょう。私が彼を尊敬しているのは、このことを彼がよく理解していたからです。
彼は言います。《イエス・キリストは、主であると共に僕でもあり、逆に、僕であると共に主でもいらっしゃる》と。イエス・キリストは、僕である主、そして主である僕。そのように私たちも、しっかり受けとめたい。私たちは「イエスは主です」と言いますが、それは一面の真理であって、「イエスは私に仕えてくださる僕です」という大事な別の面があることを忘れてはなりません。私たちの主であるイエス様は、その完全な自由を肉の働く機会としないで、僕として私たちに仕える愛の道を歩まれています。このイエス様によって、私たちも《愛によって働く信仰への自由》に歩むよう召されているのです。
パウロは律法不要論者でなかったことを前にも学びました。パウロは愛に生きることにおいて、新しい次元で律法に回帰します。
その新しい次元での律法は、14節にあるように、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされているのです。この一語を全うするなら、弱者を切り捨てることなどできません。イエス様は、ご自身が、この新しい次元の律法の体現者でいらっしゃるのです。

律法の行いは、義認とは無縁であります。しかし、義認は聖化へと連結しているのです。このことから学ぶ大事な教えがあります。義認によって得られた[罪からの]解放の自由は、愛によって働く信仰への自由と連結しているのです。そうすることで、キリスト者の自由を乱用の危険から守ってくれるだけでなく、律法の全体を要約した隣人愛の戒めを実行させてくれます。それは聖霊の導きと助けによるのです。それで以下、「聖霊によって歩みなさい」(16節)という勧めに転じていくことになります。     (2007.10.14 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 13》 キリストにある自由と愛 ガラテヤ5:1~6

  今回の箇所は、前の箇所(4章)と深いつながりがあります。前回説教した4章21節以下は、アブラハムの妻サラとそばめハガルをめぐって、パウロが寓意的解釈をしている箇所でした。その解釈によると、ハガルは奴隷女の出身なので奴隷の子どもたちを表し、サラは自由の女なので自由の子どもたちを表している、というのです。
 その段落の最後の31節を見てから5章に進みたいと思います。「こういうわけで」で始まる31節は、この段落の結論みたいな内容です。「兄弟たちよ。私たちは奴隷の女[ハガル]の子どもではなく、自由の女[サラ]の子どもです。」 「私たち」というのは、キリスト者のことを指しています。「私たちは奴隷の女の子どもではない」と言うとき、「奴隷の女の子ども」が具体的に指しているのは、律法主義者たちのことです。彼ら(その多くはユダヤ人)はキリスト者であっても、律法を守ることによって神の祝福が得られる、と考えています。[パウロも以前そうであった]ユダヤ教徒たちも、それに含まれるでしょう。
しかし、実際には、ユダヤ人でないキリスト者の中にも、律法主義者がかなりいるかもしれません。この世には、いろいろな形で律法主義がはびこっているからです。キリスト者になっても、キリスト者になる前の考え方を保っている場合があります。「私はクリスチャンになったので、古いものはみんな捨てました」と口で言うことも、心で思うこともできます。でも、実際には古いものが残っている。そういうケースが多くあるのです。キリスト者として、自分は本当に新しくされている。だから、それにふさわしく新しくされ続けていく必要がある、ということをもっと真剣に考えなければなりません。
キリスト者である以上、だれでもイエス・キリストを信じる信仰が要(かなめ)である、ということは否定しません。この信仰によって救われるのだ、という点でも一致しています。それでも、《律法を守ること、とりわけ割礼を受けることも大切ですよ》と言う人々が[キリスト者の中に]いるのです。
しかし、パウロによると、キリスト者は律法の下にはない。律法を守り切ることなど人間にはできない。だから、律法を守ることを主にしていくなら、誰も律法を守れない。結局、律法によって裁かれるだけ。そのことをパウロは、律法の呪いと言いました。キリスト者は律法の呪いの下にあるのではなく、その呪いから解放されているのです。サラはそういう自由の女であって、律法の呪いから解放された人を代表しています。私たちキリスト者は自由の女サラの子どもたちです―そのようにパウロも私たちも言うのです。
それで5章に進みます。4章31節のギリシア語原文は「自由」という言葉が最後にあり、その言葉を受けて5章の文章が始まります。ですから、原文の語順を生かして、私訳のように「この自由のために、キリストは私たちを解放してくださいました」と訳すのがよいのです。「解放してくださいました」は「自由にしてくださいました」と訳してもよいでしょう。「ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと[律法の]奴隷のくびきを負わされないようにしなない」と続く忠告の文章で、5章が始まるのです。
一般には、5章からガラテヤ書の実践的勧告の部が始まる、と見られています。私も[三十数年前に]ガラテヤ書の注解書を『新聖書注解』のために書いたとき、一応そういう見方をしました。「一応」と言ったのは、別の見方も述べてあるからです。その別の見方が、今ではよいと思っています。それによると、5章1~15節は、3章から4章にかけて論じられてきた教理的論述の結びであり、実践的勧告は「私は言います。御霊によって歩みなさい」と命じる16節から始まるのです。1~15節は、前の部分の結びであるだけでなく、16節以下の実践的勧告への橋渡しをしていると見ると、ガラテヤ書の構成がもっとよく掴(つか)めると思います。
1~15節に、パウロは実践的勧告をほとんど記していません。記している箇所があるとすれば13~15節で、ここが前の部分と後の部分の橋渡しをしている主体であると見るのが、もっとよいかもしれません。いや、13節で「ただ、……愛をもって互いに仕えなさい」と勧められ、15節でも「気をつけなさい」と言われているので、13節から実践的勧告が始まり、13~15節はその重要な導入部と見ることもできるのです。
「この自由のために、キリストは私たちを[律法の呪いと束縛から]解放してくださいました。」「自由」という語は、パウロにとって、すごく大事なものであったと思います。彼は、福音の本質を《キリストにある自由》として経験しました。そのことを体で深く味わったのです。体験が彼の知識になっています。そういう知識が、本当に強い知識なのです。キリストがこの私を自由にしてくださった! これはパウロの宗教的体験に他なりません。この福音の自由を理解してほしい、という熱い思いで彼は口述しているのです。
「自由」という言葉は、福音書にはあまり出てきません。よく知られているのは、「真理はあなたがたを自由にします」というキリストの言葉です(ヨハネ8:32)。その「自由にします」は、ここで「解放してくださいました」と訳されているのと同じ動詞です。福音書には「自由」が名詞で使われる事例はありません。「自由」を名詞で一番多く用いているのはパウロです。それは彼が福音の本質を《キリストにある自由》と体験的に捉えていたからでしょう。それが何よりも大事なことであると思います。この大事なことを、私も体験的に捉えていきたい。皆さん一人一人も、そうあってほしいと願っています。
古代ギリシア人にとって、自由とは、奴隷ではないという意味での自由人のことでした。パウロは、3章28節で「奴隷も自由人もなく」と言っています。すると、外的束縛からの自由という意味が強いのです―政治的自由、社会的自由のように。当時のローマ帝国の社会は、人口では奴隷のほうが多いという、まさに典型的な奴隷制の社会でした。そういう中で自由人としての立場でふるまえたのは、限られた人々でした。しかも彼らは、多くの奴隷たちの犠牲の上に自由を享受していたのです。弱者が犠牲になって[いや弱者を踏みつけにして]強い者が自由を得ていたのですから、今から見ればいろいろな矛盾を抱えていました。そういうことで、この外的束縛からの自由というものには、限界があることを認めざるを得ないのです。
 ですから、自由を考える場合、外的束縛からの自由というだけでは足りません。政治的自由を獲得し、社会的自由を確保する。それらは大事な事柄でありますが、限界もあるのです。それで自由を、もっと人間の内面のものとして考えなければなりません。個人の内面的自由ということが、当然生じてくる大事な問題となるのです。しかし、それにも壁があることを知る必要があります。最後の壁は自分です。この《自分》という壁を破ることができるか。自分こそ、一番手ごわい相手[いや、最強の敵!]なのです。内面的自由を考える時も、この《自分自身という大きな壁があるのだ》ということを、しっかり弁えておかなければなりません。
 そういう中で、パウロは、キリストにある自由をどのように考えたのか。もちろん、外的束縛からの自由も、個人の内面的自由も、キリストにある自由の中には含まれています。しかし、それらだけだったら、限界があります。パウロは、この《キリストにある自由》の基盤を、何よりも《神との交わりの回復》という聖所に置いていたのです。そのように私は確信します。《キリストにある自由》とは、《神との交わりを回復することと共にある自由》に他なりません。言い換えれば、救いと結び付くわけです。
キリストによる救い(「私はイエス様を信じて救われました」ということ)は、神との交わりの回復である《キリストある自由》としっかり結び合わされています。キリスト者は、救われてどうなるのか。神との和解が成り、神の子とされ、神様を「アバ父」とお呼びすることができ、神様との交わりを回復させられています。その福音的恵みの現実こそ、パウロが《キリストにある自由》として受けとめていた内容である、と言ってよいでしょう。そこには愛が息づいています。ですから、キリストにあるとき、自由と愛とは切り離すことができません。それで説教題も「キリストにある自由と愛」としたのです。
 私たちが神との交わりを回復するために、神はどれほど私たちを慈(いつく)しんでくださったか、いや慈しんでくださっていることか。どれほど大きな愛を神が私たちに注いでくださっていることか。その神様の愛が息づく中で、私たちの神様との交わりの回復が実現し、キリストにある自由が与えられているのです。ですから、この「自由」の背後にあるものは、神との人格的関係に他なりません。そういう意味で、毎朝、神様との交わりを持つ、イエス様との交わりを持つ、聖霊との交わりを持つ―聖霊に導かれて、キリストにあって、父なる神と交わりを持つことが、キリスト者の自由の根本であるのです。
 毎朝のデボーションと呼ばれる神様とのお交わりの時が、《キリスト者の自由と愛》と深い関わりがあることを、皆さんはどれだけ意識されていたでしょうか。今、はっきり意識してください。「しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないように[キリストにある自由と愛を失わないように]」、神様とのお交わりを日々新たに保ち続けていくことが、何よりも大事になるのです。
パウロは2節から、「よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います」と、使徒的権威をもってガラテヤの諸教会に語りかけます。聴いてほしい内容は、「あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もない」ということです。キリスト信仰に加えて割礼を受ける必要があるとする人々の教えによってガラテヤ諸教会に混乱が生じていました。それに対処するために書かれたのが本書です。
「割礼を受けるすべての人に、私は[すでに3章で述べたのだが]再び証しします。その人は律法の全体を行う義務があります」(3節)。割礼を受けた人は、律法の全部を行うことが本当にできますか。できません。それで、これまで述べてきたことを締めくくるように、使徒的権威をもって断言します。「律法[の行い]によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」(4節)と。キリスト者として割礼がなお必要だと思う人は、キリストから離れてしまい、恵みから落ちてしまうことになるのです。この断定をしっかり受けとめなければなりません。
キリスト者にもいろいろあって、キリストを信じるだけでは足りないと思う、そのような事態に出くわす人もいるのでしょう。それでキリスト信仰に何かをプラスするということが、よくあるのです。そうすると、そのプラスしたものが、彼をキリストから離れさせ、恵みから脱落させることになってしまいます。ここでパウロは、割礼はだめだと割礼そのものを否定してはおりません。しかし、割礼に特別な効力があるわけではありません。また、無割礼であることが、自慢の種になるわけでもありません。
6節に進む前に、5節に少し触れておきます。「私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。」 まだ義をいただいていないのかなぁ、と誤解しかねない文章ですね。キリスト信仰によって、私たちキリスト者は皆、義をいただいています。そういう私たちが「義をいただく望みを熱心に抱いている」姿は、毎朝の神との交わりを考えていただければよいでしょう。義をいただいているからこそ、朝ごとに、神様とのお交わりを慕い、新鮮に義をいただいていくことができるのです。
6節を新改訳で読むと、「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」 「大事な」は原語をかなり意訳したもので、「役に立つ」という原意を生かしてギリシア語原文を私訳してみました。「割礼も無割礼も少しも役に立たず、役に立つのは愛によって働く信仰である。」 何のために、役に立つのか。もちろん《キリストにある自由》のためにです。割礼も無割礼も、キリストにある自由に生きるためには、少しも役に立ちません。
「役に立つのは愛によって働く信仰である。」「信仰」に「愛によって働く」という修飾句が添えられていることに、注目してください。「働く」は「行い」と訳されている名詞と同根の動詞です。「働く」ことは、「行う」ことであり、「実行する」ことであります。ですから、信仰は行いと無関係ではありません。信仰義認の教えが誤解されると、行いはどうでもよい、ということになりかねません。しかし、信仰と関係のある行いは「愛の行い」であり、その意味で、愛の行いと信仰は堅く結び合わされているのです。
自由と愛が結び付くように、信仰と愛も結び付いています。愛は行為であって、必ず行いを伴います。行いを伴わない愛は、偽りの愛であり、愛ではありません。キリストにある自由のために役立つ信仰とは、「愛によって働く信仰」であり、それは「愛の行いを伴う信仰」を意味しているのです。
ガラテヤ書と対比されることの多いヤコブ書には、「行いのない信仰は、死んでいるのです」(2:26)と言われています。その通りであり、パウロもここで「愛の行いの伴わない信仰では役立ちません」と間接に述べているわけですから、両者の間に矛盾はありません。「信仰、信仰」と言っても、愛によって働かない信仰であるなら、無いほうがましだという場合もあります。なまじ信仰があるために、その信仰が災いの種を蒔いていることがあるでしょう。信仰は愛によって働いてこそ、役に立つのです。ここで、パウロは、本当に大事なことを言ってくれています。
そして、愛の行いこそ、実は、律法の要約であるのです。少し先の14節には、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と書いてあります。パウロは律法について、律法無用論者かと思えるくらい、ずいぶん否定的なことを述べてきました。しかし、彼は律法を否定してはおりません。むしろ《律法の全体は愛の行いによって全うされるのだ》と理解しているのです。

その点で、パウロは、キリストの律法理解(マルコ12:28-33参照)を正しく継承しています。パウロは「キリストの律法」(6:2)という言い方もしているのです。それはキリストが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と命じられた《愛の戒め》に他なりません。《キリストの信仰、キリストから賜る信仰こそ、私たちが愛を行う自由の源泉である》と言ってよいのです。 (2007.9.2 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 12》 隠されている別の意味を探せ

  今回の箇所は、パウロが自分の感情をさらけ出して語っている前回の箇所とは調子が一変し、お芝居でいえば舞台が反転するような感じがします。ここでパウロは、再び旧約聖書に訴えて、論証したいことを別の角度から述べてまいります。
その論証法は、ある意味で、意表を突くようなものです。少し想像を巡らせてみましょう。この手紙を口述筆記させているとき、パウロは前の箇所で、自分の感情を百パーセント高ぶらせる思いで語っている間に、思いついたことがあったのではないか。口述ですから、普通にしゃべる速さでしゃべり続けているわけではありません。一区切りの言葉を口にしたなら、それを筆記者が書き終えるのを見届けて、次の言葉を語ることになるので、その間にいろいろ考えることができ、また思いついたのではないでしょうか。それがこれから述べること表れていると思います。
訴えている旧約聖書の箇所は、アブラハムに関係があります。パウロは3章で、アブラハムに訴えて大事なことを述べてきました。ここでは、アブラハムの腹違いの二人の息子(イシュマエルとイサク)とその異母たち(ハガルとサラ)に光が当てられます。この二人の息子と二人の異母の物語が記されていのは、創世記16章1-16節、21章1-21です。
 書き出しの21節で、パウロはこれまでとがらりと調子を変えて、「律法の下にいたいと思う人は、私に答えてください」と言います。「律法の下にいたいと思う人たち」は、ガラテヤの諸教会を間違った方向に導こうとするパウロの論敵たちですが、その間違った教えに引きずられているガラテヤの諸教会の人たちをも暗に指しているでしょう。「これから私が言うことに答えてください」と、彼らに論争をしかける調子で、「あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか」と鋭く問いかけます。パウロは、律法の言うことを聞いていたと言い張る人たちに、「本当に聴いているのですか。そうではないでしょう」と強く迫っているのです。
 「律法」と言っても、ここでパウロが意味しているのは、律法の掟(おきて)ではなく、律法の書に記されている物語であることが[以下の展開から]分かります。モーセ五書の最初の創世記には、律法の掟はなく、ほとんどすべてが物語です。その創世記に書いてある物語を「あなたがたは本当に聴いているのか、本当に知っているのか」と鋭く問いかけて、22節以下に進みます。
 その物語には、「アブラハムには二人の子があって、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた」と書いてあります。女奴隷はハガル、自由の女はアブラハムの妻サラです。アブラハムとサラ夫妻には子が授からないまま、不妊の女であったサラは子を産める年齢を過ぎてしまいます。そこでサラは、当時の慣習にならって現実的な対策を採ります。自分の代わりに奴隷女を夫に差し出して子を産ませたのです。そのようにして生まれた子は、女主人である自分の子になります。こうしてハガルとアブラハムとの間に生まれた男の子がイシュマエルなのです。
 これは《アブラハムの子孫によって全世界の国々の民が祝福を受ける》という神の約束と深い関わりがあります。この約束が成就するために、まずアブラハム夫妻は子を授からなければなりません。そうでないと子孫が絶え、約束が無効になります。夫婦の間に子が生まれなければ、別の対策を講じる必要があり、サラは自分の女奴隷を夫に差し出して子を産ませることにしたのです。
「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです」(23節)。「肉によって」とは、《男と女との自然の関係で》という意味です。アブラハムとサラとの間にも、人間的には不可能であったのに、なんと子が生まれます。それは神の約束であって、約束の成就として子が生まれるのです。そんなことをアブラハムもサラも、まともには信じませんでした。子を授かると聞いたとき、《そんな馬鹿なことが》という思いで、アブラハムもサラも笑ったと書いてあります(創世17:17;18:12)。それにもかかわらず子を授かったのは、「肉によって」ではなく、まさに「約束によって」であります。この約束の子がイサクです。
24節に、「このことには比喩があります」と書いてあります。「比喩があります」と訳された原語アレゴレオー(動詞)は、英語のアレゴリーの元になっていますが、内容的に掘り下げると「もっと深い別の意味が隠されている」という意味です。文字の表面的な意味のほかに別の意味が隠されていて、その隠されている意味のほうが大事である、という含みがあります。《その隠されている別の意味を探りなさい》と言われているのです。
その隠されている意味を探ると、「この女たちは二つの契約です。」 彼女たちにはもっと深い別の意味があり、それが二つの契約なのです。このことをパウロは、先に触れたように、口述筆記する合間に思いついたのではないでしょうか。このことは、私の小さい経験からも分かります。不思議に着想が湧いてくるのです。突飛(とっぴ)なものではなく、脈絡の中にきちんと位置づけられた着想であって、それが隠された別の深い意味を明らかにしてくれます。パウロは霊感によって、そういうすばらしい着想をたくさん神様から授かったのではないでしょか。旧約聖書の知識をしっかり身に着けていたパウロは、それだけの素養を備えていたのです。
ハガルとサラには隠された別の意味があります。それは二つの契約である。このことにパウロは(そして私たちも)気づかされました。「一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。」ハガルのほうはシナイ山から出ている契約(シナイ契約)で、古い契約になります。パウロの洞察によると、ハガルは古い契約を指しているのです。すると、サラはどの契約を指すのか。ここに明記されていなくても分かります。それはイエス・キリストを仲介者とする新しい契約です。これはシナイ契約に対してキリスト契約と言うことができます。
 すでに3章でパウロは申しました。《シナイ契約に基づく律法は、新しい契約を立てるキリストが来られるまで、その役割を担ったのである》と。それでパウロに、聖霊の導きによって《ハガルはシナイ契約、サラはキリスト契約である》という着想が湧いてきたのである、と私は思います。
 ハガルはシナイ契約を指すので、25節で「このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります」と言われているのです。当時のエルサレムは、ユダヤ教の本山であり、ユダヤ教そのものを指していると言ってよいでしょう。あるいは、律法主義的なキリスト教を指しているのかもしれません。「なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。」 
パウロはすでに3章で、《律法の行いによって救われようと思うなら、全く望みがない。私たちは律法のすべてを完全に守り切ることなどできないのであるから。律法の下にあるなら、その奴隷となり、そののろいの下に置かれるだけである》ということを、縷々(るる)述べてきました。シナイ契約に基づく律法は、ハガル自身が女奴隷であるように、人を自由にするのではなく、奴隷の子を産むことしかできないのです。
26節では、サラの名を挙げるまでもなく、「しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です」と述べています。ハガルのエルサレムに対して、サラは「上にあるエルサレム」と言われます。これは単に上にあるだけでなく、「上から来ているエルサレム」の意味合いがあり、そのほうが強いかもしれません。上にあるのを私たちがただ単に望んでいるのではなく、《「上から来ているエルサレム」が私たちのところにあるのだ》という[信仰的な]意味が強いと思います。それをパウロは《教会》と考えました。この「上から来ているエルサレム」こそ、キリスト契約(新しい契約)に基づく《キリストの教会》であり、人々を自由にします。キリストの福音が人々を罪の束縛から解放し、律法ののろいからも解放してくれるからです。
さらに「私たちの母です」と言います。サラはたくさん子を産む母なのです。教会はたくさん自由の子を産みます。母である教会の概念が、ここではっきり教えられていることに、注目してください。カルヴァンは、この教えを大事にしました。神は私たちの父であるけれど、私たちの母はいないのかという質問に、カルヴァンは《私たちの母は教会である》と明確に答えているのです。
「私たちの母」はたくさんの子を産むことが、27節に述べられています。ここにイザヤ書54章1節の預言が引用されています。イザヤ書54章の背景にある時代は、紀元前六世紀の後半です。その半世紀ほど前の紀元前六世紀初めころ、ユダ王国(ダビデ王朝)がバビロンに滅ぼされ、エルサレムは陥落して神殿も焼かれてしまいました(前587年)。そのときエルサレムや周辺の住民の多くがバビロンに連れていかれ、そこで捕囚生活を送ることになりました。《バビロン捕囚》と呼ばれる出来事です。しかし、半世紀ほど経過すると、バビロンが滅亡し、捕囚から解放される時が訪れます。バビロンからエルサレムへの帰還を許されたユダの人々は、荒れ果てた祖国の再建にとりかかります。そういう時期に語られた預言からの引用なのです。
「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ」と呼びかけられている「不妊の女」はサラのことを意味しているかもしれません。サラは「不妊の女」でしたから。だけど、ここで「不妊の女よ」と呼びかけられているのは、半世紀も荒廃の中に置かれていたエルサレムのことであると思います。当時のエルサレムは、城壁が破壊され神殿も焼け落ちたままで、見る影もないほど荒れ果てていました。「産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」 これは、《夫に捨てられた女のように無惨なエルサレムが、たくさんの子どもを産む祝福された女になる》という預言なのです。
では、いつ、どのように、この預言は成就したのか。バビロン捕囚から帰還したユダの民がエルサレム復興に取り組み、神殿を再建したり、城壁を築き直したりします。それでも、その後の経過を見ると、すべてが良かったわけではなく、様々な困難が続いて止むことがありません。この預言が成就したとは思えない情況が続いておりました。
パウロは、ここで《この預言は、イエス・キリスト及びキリスト契約に基づく教会において、自由の子どもがたくさん産まれていく情況において成就しているのだ》と、私たちに教えてくれています。「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです」(28節)。イサクのように自由の女サラから産まれた自由の子どもたち―これはガラテヤの諸教会の信徒を含む、私たち教会の子どもたちのことを指しているのです。
 「しかし、かつて肉によって生まれた者(イシュマエル)が、御霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように、今もそのとおりです」(29節)。創世記の物語には、イシュマエルがイサクを迫害したことは書いてありません。この事実はユダヤ教の伝承によるのでしょう。《イシュマエルがイサクを迫害したように、今も、律法による人々が、律法ののろいから解放された人々を迫害している》と、パウロはガラテヤの諸教会で今起っている状況を見て、解釈しているのです。
こういう解釈法を寓意的解釈と言います。歴史的・文法的・字義的解釈が尊重される現代では、寓意的解釈は疎(うと)んじられる傾向があります。しかし、近代以前には、寓意的解釈が聖書解釈の主流であったのです。聖書に書かれている昔の事柄を現在の私たちにとっても大事な事柄として受けとめる道を示唆してくれていたのが、この寓意的解釈であると思います。この点での寓意的解釈の有効性を軽んじはなりません。
聖書は古い時代の書物です。それが《神のことば》として、現在の私たちにとってどういう意味があるか。そのことが絶えず問われています。そのため[聖書は歴史的に成立した文書なので]聖書の歴史的研究が必要です。しかし、それだけでは、《聖書が告げる昔の出来事は現在に生きる私たちにとって何を意味するか》という、もっと切実な問題には応えられません。聖書は最終的には聖霊の導きによって理解させられていくものであり、これが一番大切なことです。
この29節の現状は、今の日本の現状にも別の形で起っているのではないか。そのことに気づかされたので、週報の説教要旨にも書いておきました。「律法の下にいたいと思う人たち」は、日本の戦後レジームから脱却して、戦前の古いレジームへの回帰を熱望している人たちです。そういう日本人がかなりいて、戦後の新しいレジームを特色づける平和主義の人たちを押しつぶそうとしている。そういう現実を私は見るだけでなく、強く感じています。戦後レジームからの脱却を叫ぶ[軍国主義に変身した]律法主義が、平和主義の戦後レジームを押しつぶそうとしている。そういう現実を私は肌で感じています。
「しかし、聖書は何と言っていますか」(30節)。その後、創世記22章10節を引用します。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」 ハガルとイシュマエルは、ついに追い出されます。これはそういう物語として、その枠内だけで理解してください。物語の枠を越えて普遍的に理解されると、福音の真理に背くことになります。創世記の物語でも、追い出されたハガルとイシュマエルを神があわれんでくださった感動的(福音的!)な記事が、すぐ後に続いているのです(21:14-21)
パウロが一番言いたいのは、《大事なのは自由で、その自由をキリストの福音が私たちに与えてくれるのだ》ということです。それで5章において、キリスト者の自由の論述へと進みます。神の国の相続人は、自由の女の子どもです。奴隷の女の子どもは、神の国を相続することができません。神の国は奴隷の国ではなく、自由の国であるからです。この自由は基本的人権でもあり、思想・良心の自由、信教の自由等が尊重されるところに神の国があります。この自由を束縛する行為は、神の国に反対する行為となるのです。

 ハガルとサラのことから、そこに隠されている意味としての二つ契約(古い契約と新しい契約)を抽出しました。古い契約は奴隷の子しか産まない。新しい契約こそ自由の子を産むのだ。罪の赦しと永遠のいのちを得て私たちを神の子とする自由は、新しい契約に基づく福音が与えてくれます。キリストの教会こそ福音の自由の根源なのです。蓮沼キリスト教会も、いつも活けるキリストが現臨される場所であり、自由の根源であり続けることができるようにと祈ります。 (2007.8.19 村瀬俊夫)

《ガラテヤ書連続説教 11》 あの喜びは、今どこにあるのか

  今日は7月8日で、昨日が7日でした。この7月7日は、七夕(たなばた)として知られています。しかし昨日は、盧溝橋事件で日中戦争が始まって70周年ということで、めずらしく新聞やテレビで取り上げられていました。中国では毎年、この日は「七・七記念日」として国を挙げて覚えられています。もう一つ、私の受洗日である9月18日が、日本の中国大陸への侵略戦争が本格化する満州事変開始の日で、中国では「九・一八記念日」として国家的に覚えられているのです。そのことを日本人も忘れてはならない。過去の歴史の事実をしっかり学び、それと向かい合っていくことを大切にしましょう。
 さて、今日説教するのはガラテヤ書4章8節からです。ガラテヤ書は、非常に起伏に富んだ内容で《読む者をして飽きさせることがない》という感じがします。少し難しいと思われる箇所もありますが、読んでいて飽きることがない文章であると思います。最初からパウロは挑戦的な調子で書き始め、ガラテヤ人に強く迫っているのです。そのため自分の使徒的権威を意識し、強調しております。そして、使徒の権威にかけて語る自分の福音の確かさ、真実さを彼は力を込めて訴え、語り告げているのです。その福音の真実性を、彼は、旧約聖書の救いの歴史(救済史)に照らして論証してまいります。
それだけだったら難しくてつまらなかったかもしれませんいが、そこにパウロは自分の体験を織り込み、心情を吐露するように語っているので、読む者や聴く者に切々と迫るものがあります。そしてパウロは、《キリストが世に来られたことは、すごい出来事、まさに終末論的出来事である》と受けとめました。「終末論的」というのは、それで終わりということで、一回ですべてを包含することを意味します。ですから、繰り返し起こることはありません。《キリストの来臨は、そういう出来事である。まさに歴史を転換させるような出来事である》と、彼は理解したのです。それも彼が頭で考え出したものではなく、彼の救われた霊的体験から得られた理解であった言わなければなりません。
 パウロは、理論的な人でした。彼の書いた手紙で一番代表的なローマ書には、福音の教えがきちんと系統だって述べられています。「福音の真理を知りたければローマ書を学べ」と、私がキリスト者になって間もない頃、よく聞かされました。それで私は、内村鑑三の『ローマ書の研究』を熱心に読んで教えられ、信仰の骨格を形づくられたように思います。このローマ書は内容が難しいと言われますが、それも道理で各節の文章が、丁寧に訳すと「なぜなら……であるからです」と、前節の理由を述べるという形式で続いています。こういう理詰めの文章を書くのですから、彼は確かに理論の人であり、神学者パウロと言われてもよいのです。
 しかし、それ以上に彼は情熱の人でした。彼の当時、50歳くらいにもなって、あれだけの大旅行をしたのです。当時の50歳は今の80歳くらいに相当します。今の私くらいの年齢です。私にこれから、あのような伝道活動をやれと言われて、できるでしょうか。それを思うと、彼は本当に情熱の人だったんだなあ、とつくづく思わされます。彼は頭でよく考えたけれども、それ以上に考えたことを実行するためによく動きました。
彼は当面の問題を解決するために、聖書によって論証することに力を注ぎました。しかし論証だけで問題が解決するとは思っていませんでした。理屈だけでは人はなかなか動きません。苦楽を共にした体験や、お互いに心を通わせ合う心の交流があってこそ、人の心は動かされるのです。そのためには、相手の立場をよく理解し、相手にも自分の立場を分かってもらえるようにする。そういう交流があってこそ、理論も生きてくるのです。  
 それでパウロは、ガラテヤの教会員たちと開拓伝道期に、本当に苦しみも喜びも共にした体験を思い浮かべながら、そのことを忘れてよいのか、「あの喜びは、今どこにあるのか」と、この手紙の受け手であるガラテヤの諸教会の人々に迫っています。それが今回の箇所でありますが、そういうことが問題を解決する大きな力[決め手]となるのだ、ということをパウロは知っていたのです。
 先日、私は石橋湛山のことを取り上げた「この時、歴史が動いた」というテレビ番組を見ました。石橋湛山のことは知っていて興味があったので見た番組ですが、それだけの甲斐(かい)がありました。改めて彼が、あの満州事変以来、その前から日本の侵略政策に経済的な面から厳しい批判を向けていた先見の明に対して、敬服の思いを新たにさせられました。中国を侵略しないでも、日本の生きる道はあるのだ、日本は経済的にもやっていけるのだ、と彼は経済学者として主張し続けてきました。《隣国とは心を通わせていかなければならない》という思いを、彼は強く抱き続けてきた人であったのです。
 戦後、政治の世界に登場して総理大臣になった時期(1957年12月)がありました。まだ私の社会的関心への目覚めが不十分であった頃であったのに、私は石橋内閣の誕生で、日本はよくなるのではないかと期待しました。それが病のため退陣し、たった二ヶ月の短命内閣で終わったのです。首相に就任すると、持論である《これまでのアメリカ一辺倒の政策を脱して、中国との関係を結ぶようにしなければならない》という考えを述べるため全国を遊説しました。その疲れもあってか彼は脳梗塞で倒れたのです。しばらくの静養が必要であるとの診断を受け、彼は潔く総理の職を辞したのですが、回復後、不自由な体を押して中国へ渡り、周恩来に会って日中関係を回復する基礎を築きました。
その石橋湛山が最後に言ったと伝えられる言葉が、私の心に深く刻まれました。「人を動かしていくのは理屈ではない。それは同情である。相手の立場に立って考えていくことなのだ。」 本当にそうですね。同じ情が通い合うときに、人は動き、問題は根本的な解決の方向に向かっていくのです。
パウロも、ガラテヤの諸教会の問題を解決するに当たって、論証だけで事を済ませることはしません。彼らと心を通わせ合うことをしたいと、自らの心情を吐露して語りかけています。ここは、特に11節以下が、そのような箇所であるのです。それだけに今回の箇所は、とても魅力のある所であり、また感動的な所でもあると思います。
 8節から10節を見ると、ここでパウロは、過去と現在との大きな違いに気づかせようとしています。「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした」(8節)。これはガラテヤ人の過去の姿を述べています。彼らは、この世にあふれた「神でない神々の奴隷」であったのです。9節を見ましょう。「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力な、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」 
  ガラテヤ人は、かつては「あの無力な、無価値の幼稚な教え」のとりこになっていました。「幼稚な教え」は、ストイケイアの訳語です。英語のエレメントにあたる意味がある語で、基礎的な事物、地・水・火・風を指すこともある。そのようなものが霊的な力をもって世界(特に星)に宿っているという考えから「世の霊力」と訳されることもある。それから「基礎的な教え」を指して用いられる場合もあり、新改訳はそれによっているのです。かつてガラテヤ人がストイケイアの奴隷であったとしても、まことの神を知らなかったのですから、やむをえないことでした。
 そのガラテヤ人は、パウロを通して、イエス・キリストの福音において現された「まことの神」を知らされました。この「まことの神」は、もう少し厳密に表現するなら、《キリストの十字架と復活の出来事において啓示された神》に他なりません。第一に、福音において示された神は、《十字架につけられた神》であります。十字架のシンボルは、その意味において大事です。しかし、それだけでなく、《十字架の死からよみがえらされた神》でもあります。この「まことの神」を信じることによって、ガラテヤ人はストイケイアから解放されるという自由を与えられ、本当に喜んで新しい生活を始めたのです。
 しかし、そのガラテヤ人が新しい生活から古い生活へ逆戻りする、という事態が生じました。「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています」(10節)。これは肯定文に訳していますが、9節に合わせて「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っているのですか」と疑問文に訳したほうがよいと思います。せっかくパウロから聴いた福音によって新しい生活に生きる喜びを味わってきたのに、またそれから離れて逆戻りしていくガラテヤ人を見て、「あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています」(11節)と、自分の胸のうち(心配)を打ち明けているのです。
 それでパウロは、「お願いです。兄弟たち」と呼びかけ、彼らの心に迫るように訴えています(12節)。「私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから」と。この表現の背景にあるのは、Ⅰコリント9章19-23節です。キリスト者の自由についてパウロが論じている、そのさわりのような箇所であります。パウロはこう言っているのです。《福音のためには何でもしている私、この私のようになってください。私も福音のために[異邦人である]あなたがたのようになったのですよ》と。彼はガラテヤに行ったとき、ガラテヤ人のようになって、彼らと福音の恵を分かち合い、共に福音の恵みにあずかろうとしました。その結果として、ガラテヤの諸教会が誕生したのです。
 「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした」(13節)。パウロは困難な伝道旅行を50歳代になってしたのですから、かなり壮健な身体を備えていたと思われます。しかし、ガラテヤに行ったとき、彼は肉体の弱さを覚えていたと告白しています。それで彼がガラテヤへ行ったのは、福音伝道のためよりも静養が目的であったかもしれません。彼の「肉体の弱さ」が何であったかは分かりません。15節に、ガラテヤ人が「もしできれば自分の目をえぐり出して私(パウロ)に与えたいと思った」とあることから、目の病気ではなかったかと言われることもあります。
 コリント第二書12章に、パウロは「肉体に一つのとげ」を与えられ、それが取り去られることを三度も祈ったが取り去られず、《むしろ弱さのうちにこそ神の恵みが完全に現されるのだ》ということを教えられた、と書いております。パウロの肉体に「一つのとげ」と呼ばれる欠陥があったことは事実です。それはガラテヤ人に不快感を与えかねないものであったのでしょう。彼は14節に、「そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました」と書いているのです。
その時のことをパウロは、忘れることができず、昨日のことのようにはっきり思い出しています。その時のことは、ガラテヤ人も忘れていないでしょう。それはキリストの福音が彼らの心に深く入りこんだ証しであったからです。「それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか」(15節)。《自分の目をパウロに与えたいとまで思った》彼らの喜びを、よもや彼らが忘れてはいないでしょう。そんな思いで、パウロは彼らに語りかけているのです。
 ガラテヤの諸教会の設立には、本当に多くの苦しみがありました。19節後半の「私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」という言葉が、それを示唆しています。最初にした産みの苦しみは、ガラテヤの諸教会を誕生させる時でした。そのようにして産み出したガラテヤ教会の信徒たちに、パウロは母親の情(母性的感情)を抱いていたように思います。産みの苦しみの後には、大きな喜びがあります。パウロがその喜びを忘れるはずはありません。そして産み出された者たちも、その喜びを共有していました。その喜びは、今どこにあるのですか。 
 この問いかけを、蓮沼キリスト教会が、また教会に連なる信徒一人一人が、しっかり受けとめなければなりません。年月を経ると、どれほど大きな喜びも感動も、惰性で次第に薄らいでいく危険があります。ですから、キリスト者である喜びが薄らいでいかないように、忘れてしまわないように、絶えず、毎日、思い起こすことが大切なのです。朝ごとに、活けるイエス様とお会いし、お交わりして、イエス様が私と共にいてくださる喜びと感謝を新たにさせていただきましょう。これが一番大切なことです。
教会においても、毎週の礼拝において、ここに主イエス様がおられる。そのイエス様の体(からだ)に私たちは召されているのだ。イエス・キリストが私たちの教会の主でいらっしゃる。その御翼(みつばさ)の下に私たちが置かれているのだ。それらの喜びを週ごとに、新たにしていくこと。それが本当に大事なことなのです。ただ教理を学び、聖書の教えを学んでいれば良いのではありません。日本長老教会は教理とその学びを大事にしています。私も聖書の教えと教理を[誰にも負けないように]よく学んできました。しかし、それで足りるのではありません。
それらの教えや教理が生きた力となるためには、福音の恵みにいつも私たち自身が新しくされていなければなりません。私も自分が19歳で救われた日のことを思い起こします。あの喜び、本当にうれしかったあの喜びを、現在78歳ですから60年近く経ちますが、この今によみがえらせていただいて忘れないようにしたい、と願っています。
 ガラテヤ人を誤りに導いた偽(にせ)教師たちがいました。彼らは熱心でした。その熱心さのゆえに、ガラテヤ人は彼らに引かれていったのでしょう。「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを[福音の恵みから]締め出そうとしているのです」(17節)。私たちを福音の恵みから締め出そうとする力は、いろいろな形で絶えず働いています。

パウロは19節で、「私の子どもたちよ」と母親の愛情を込めて呼びかけ、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。[この手紙を書いているのもそうですよ]」と言います。大事なことは、キリストが私自身のうちに形造られ、そして教会のうちに形造られていくことです。それほどにキリストとの交わりが新鮮であり、霊的な現実性を持つとき、そこに救いの喜びが満ちあふれるのです。       (2007.7.8 村瀬俊夫)